友永 詔三(Tomonoga Akimitu)先生
・「友永氏は従来のNHK人形劇人形作家と違い、人形劇団の所属経験が無かった。なので人形製作の常識やしがらみ(例えば操作性の良し悪しなど)に囚われる事なく新しい手法を導入していった。球体関節や2mもある巨大なランカーの人形などがその例である。しかしその分操作スタッフは苦労したという。」(『電撃特撮通信vol-19・メディアワークス社』から引用、管理者要約)
・「人形の現代的なシルエットと、ポップな衣装デザインが好評をよんだ。木彫りで球形関節の棒使い人形が中心で、マリオネット、ウレタンのグローブ人形も使用した。」(NHKホームページより抜粋 )
・「いろんな国に行くお話なので、その国ごとの特徴を人形に反映させるのが難しかった。NHKの”のど自慢”など
の地域番組や、竹の子族など当時の最先端の風俗がずいぶん参考になった。最も忙しい頃は、週に20体ぐらい作っていた。」という話だ。(Yoshida様@HOME)
・「人形は木をもとに作り、全身きちんとできている。プリンプリンはアメリカビバ、ランカーは桐、シドロ、モドロは松の木、チンタムはカツラを使った。種類を変えたのは木の持っている色をそのまま使うためだった。人形は合計で500体くらい作った。 このほか、まつ毛は鳥の羽根でできており、人形によってまつ毛も違う。爪もちゃんとついている。」(crescendo様情報)
また、友永先生は
「飛鳥時代の仏像が好きで、木彫り連作の少女像の髪型もそれをヒントにして少女の彫像を作ったりした事もある」(大道寺零様@ゼロダマ) 、という。そう言われて改めてプリンプリン、ボンボン、カセイジン、オサゲなどの顔立ちを見ると仏像、観音象や地蔵仏などの仏教美術の影響を受けているようにも見える
また人形達の美しい衣装や装飾などは7人の女性スタッフが友永先生をサポートしたと言う。
氏の人形は、きちんと性器まで造り込まれて
いるので、プリンの着替えの時には「男の人は見ちゃダメ」と、女性スタッフだけで行なった。(03/05/25:神無月仏滅様情報@友永詔三「動く木彫人形」より)
さて、視聴者としての素人感想だが、プリンプリン物語の人形造形には親しみやすさへの媚びが無く、シビアな美しさを感じられる。幼心にそれ程取っ付きやすい容姿では無かったが、これら人形達が創造する独特の世界観に強く印象付けられたのは確かだ。
もしこれが単にかわいらしいだけの子供受けを狙った人形だったら、脳を右から左へ抜けて行くだけで、今に至ってなお、こんなに人々の記憶に残る事は無かっただろう。
友永先生の人形には不思議な魔力が宿ってるのかもしれない。
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・『碧〜一番美しい瞳の色』
プリンプリン物語の人形達は碧(青緑色)の瞳が多いが、それは友永氏が昔オーストラリアへ行った際、青緑色の瞳をした人々を見てびっくり、「こんな美しい瞳の色があったんだ・・・」と。 以来、グリーン・アイは友永氏の「ベスト・オヴ・瞳の色」となったという。(恋ヶ窪様情報2003/08/02)
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・『主役人形たちは何体いるのか?』 片岡力様-(『NHK連続人形劇のすべて』企画・編集者)
(※片岡力氏----無頼堂を立ち上げ、現在フリーの編集ライターとして、「特撮電撃通信」などで活躍。
他に「NHK少年ドラマシリーズのすべて」という、星雲賞を受賞した本も企画・編集(urico様情報))
★03/07/30 BBSより 「プリンプリン一行はそれぞれ何体いるのか?」、という件について、取材の結果現時点でわかっていることをお伝えします。
ボンボンとモンキーはそれぞれ最低2体、オサゲとカセイジンは最低3体確認できています。 実際にいま複数の場所で同時にボンボンたちの人形が展示されています。
もちろんどの人形も実際に撮影で使われたホンモノです。
ならば、それぞれの人形の複数のタイプ(タイプA、B、Cと名付けました)はどうやって区別するのか……それについては、いろいろ考えるのもまたファンの権利であり楽しみでもありますから、今はあえてお答えしないでおきましょう。
『プリンプリン物語メモリアルブック(仮題)』で実例写真付きで回答する予定です。
ただ、カセイジン人形は、タイプA、B、CのほかにタイプDが存在します(しました)。
このカセイジン・タイプDは、いわゆる(って誰も言ってないが)「えびぞりカセイジン」です。
予感があまりにも激しい場合、カセイジンは何度かえびぞりスタイルになります。
最初のうちは、みなさんのご明察のとおり、1体のカセイジンを頭だけ出し、もう1体のカセイジンの胴体だけを逆立ちさせて、つまり2体を使って1体の「えびぞりカセイジン」に見せていました。
ところが、デルーデル篇の後半(第565回)では、初めから1体でえびぞりの形になっているカセイジンが出てきます(しかも独楽のようにグルグル回転します)。
これをタイプDとしました。
友永先生に確認したところ、カシラを流用しボディだけ新しく作ってくっつけたと記憶している、とのことでした。
したがって、カシラを元のボディにつなぎ直したとしたら、タイプDはすでに現存せず、もし現存してもカシラはなくボディのみ、ということになります。
★03/08/03
BBSより タイプCの人形は、オサゲ・カセイジン・ボンボンすべてについて存在します(ボンボンのそれはつい先週存在が確認されました)。
おそらくは同じ用途(放送期間中の外部展示用)のために、同じ時期に作られたものだと推測されます。
本放送に出てきたかどうかについては、その可能性もあるようですが、今のところ裏が取れていません。
ボンボンなどは「エッ!これ誰?」というくらい顔つきが違いますし、カセンジンはある決定的なところが違います(証拠写真も『プリンプリン物語メモリアルブック』に掲載します)。
タイプCの人形たちがタイプA&Bと決定的に違うのは、人形の構造上の点です。
タイプCはタイプA&Bと違って、首が直接胴体にくっついているのです。
つまり、体と首(つまり顔)がつねに同じ方向(正面)を向いてしまうんですね。
この点から考えて、これらは操演用ではなく展示用の人形で、場合によってはタイプA&Bの代理としてほんの少し画面に登場した可能性がある、といまのところ考えています。
それでも友永先生自らの手彫りですから、ホンモノには違いありません。
ちなみに、全裸オサゲで確認できる男性器(といっても、ちょっと突起がついているといった程度のものですが)は、タイプA&Bにも付いています。
このことは、ウンゴロ連邦篇の初めのほうの「プリンプリンの世界早まわりすごろく」の時に出てくる「プリンプリンの仮装大会」で一瞬確認できます。今回の再放送でも流れるはずですから、お楽しみに(^_^;;;)。
また、有名な「おフロ」のシーンで出てくる全裸オサゲは、小生はタイプCだと思っていたのですが、どうやらこれもタイプAかBのようですね。
なお今回、ランカーの全裸ボディも再発見されました(足は未発見)。
しかし、これを本に掲載してよいものやら(^_^;;;)。
ミニミニ・カセイジンについては、今回展示されたものはドオンブリカ篇で出てきたものと一緒のものだと思います。
今回、名札のついたほうとあわせて2体とも一緒に再発見されました。ハルマキさんが知りたがっていらっしゃる名札の名前も、もちろんわかりましたよ。
その名前は……(以下自粛)。
なお、プリンプリンの初期の髪質についてですが、初期は違う素材を使っていて、のちに変更されたかどうかは、いまのところ確認がとれていません。
ただし、放送技術上の問題で、銀色の発色が思ったようにうまく出なかった、という話は聞いたことがあります。
それが本当なら、わりと早い時期に途中で素材そのものを変更した可能性はありますね。放送中に素材を変えていったというケースは、われわれが気づいている以上に多かったようです。
引き続き可能な限り調べてみます。
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<友永先生の略歴> 昭和19年11/8 高知県高岡郡に生まれる。 幼少期は遊び道具など全て自作していた。しかし人形には関心が無かった。 ※)幼少期の過ごし方が将来を左右する事は結構ある。手先の器用さもこの時から見られたのかも。 昭和32年 中学入学 この頃から油絵に夢中になり始めた。 昭和38年 19歳で上京 観劇、デッサン、スケッチなどをして暮らし、サルバドール・ダリに心惹かれる。 ※)ちなみにダリは僕も好きだ・・・い、いや、決して自分ごときものを先生と比較しようと言うのでは無いが、何やら親近感を覚える(^^)。 昭和40年 東京デザイナー学院インテリアデザイン科入学(21歳) 舞台美術のクラブ活動に熱中。 ※)後に先生はインテリア関係にも才能を発揮している。主に少女をモチーフにした人形と、椅子や灯り(和紙を使ったスタンド等)'etcを融合させたオブジェは素晴らしい。 昭和42年 卒業展示で人形劇「みんなの広場」を上演 同年東宝舞台(株)美術部に入社 オーストラリアの人形劇団「Peter Scrivent's Tintookies」のオーディションに合格 同時に東宝舞台(株)を退社 ※)この頃、突然略歴の中に人形劇の話が現われたと思いきや、みるみる内にオーストラリアの人形劇団で腕を振るうようになって行く。いやはや、才能のある方というのはチャンスが向こうから寄ってくるかのよう。うらやましい・・ 昭和43年 オーストラリアに渡る(23歳) オーストラリアで劇団のテレビやコマーシャルの人形製作にあたる。 ※)オーストラリアに渡るきっかけとなったのは、演出家で劇団のオーナーでもある「ピータースクリベン」氏による国際的な人形原画コンテストでの入選受賞。 将来の進路を模索していた友永青年は受賞後東京の恵比寿でピーター氏に会い、氏の情熱に心打たれたという。そして驚いた事にピーター氏はこの時いきなり人形劇の脚本を渡し、デザインを依頼してきた。先生はそのまま製作のために海を渡る事になった。 そして友永先生が師匠「イゴール・ヒチカ」氏に出会ったのもここでの製作活動の最中だったという。イゴール・ヒチカ氏はロシア人で13カ国語を話す人の良い老人で、イゴール氏から様々なアドバイスを受け、また氏を通じてアーティスト同士の人脈も大きく広がった。 昭和44年 オーストラリアの国立人形劇団「The Marionette Theatre of Australia」に移る 同劇団でEXPO’70の上演劇「The Magic Pudding」の人形製作 ※)「プ、プリン(Pudding)!?」何やら暗示的・・・?いや、コジツケ?^^;。 昭和45年 帰国し、東京デザイナー学院の講師になる 昭和47年 同校の講師を退職し本格的な芸術活動に専念する(28歳) 同年アトリエ「TOMO人形教室」を開く 昭和50年 サンリオの依頼で人形アニメーション「くるみ割り人形」(サンリオフィルム)のパイロット版の人形デザイン 昭和51年 日本テレビ「モーニングショー」のタイトルバックに人形が使用される ※)確認していないので分からないが、国内のTV番組で使用された最初だろうか。 昭和52年 渋谷西武劇場で人形による夢幻劇、「真夏の夜の夢」の人形製作を担当 昭和53年 NHKより連続テレビ人形劇の依頼を受け、取材のためインドへ渡る ※)そう、プリンプリン物語でのキャラクターたちのビジュアルはまさに「インド」がベースになっている。 昭和54年NHK人形劇プリンプリン物語の人形製作開始! ※)以上、ここまでは「友永詔三人形作品集」 文化出版局 1980 からの情報を中心に要約しました。 昭和57年 プリンプリン物語放送終了 |
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