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製作秘話とスタッフ紹介
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<物語製作あれこれ> |
・消されたフィルム
『プリンプリン物語』は1979〜1982に放映されたNHK人形劇である。
是非とももう一度見てみたいのだが、物語の半ばにフィルム現存が確認されていない部分があり全話再放送は難しいと言う。だが無い無いと言いつつも各支局を探せば普通は出てくるものであるが。
その放送データの概略は以下の通りである。
放送期間 | 昭和54年(1979.4/2)〜57年(1982.3/19)までの3年間 |
時間帯 | 平日、18:25〜18:40で一日15分ペース |
回数 | 3年間で656回 |
現存フィルム | 1〜5回 / 443〜656回 (NHKからの回答による) (しかしDVDに194話収録とあり、他にもありそうだ) |
・ロングランの秘密
物語と人形のかつて無いシュールさ故に、当初人気は低迷を続けていた。しかしそれが3年間ものロングヒットとなったのには訳がある。
名古屋のラジオ局の「花のアナウンサー」のつボイノリオさんDJ番組で出た話によると、『プリンプリン物語は本当は一年で終了する予定だったんです。ところが皇室の影響力というのはすごいものであのサーヤが(紀宮様のこと)「好きな番組はプリンプリン」だと言われたんです。おかげで3年も続きました。』(犬玉梓之介様情報)と、いう事らしい。
まさに事実上のプリンセスの庇護も受けていたようだ。
と、言っても番組が長続きしたのはそれだけではない。放送半年目、アクタ共和国のルチ将軍の登場と共に視聴率が一気に上昇したのである。彼のキャラのインパクトは視聴者を釘付けにし、お陰でプリンプリン達はこの国にかなり長期滞在する事になった。まさにルチ将軍は中興の祖である。
<再放送事情> |
もうフィルムが無い、と述べていたのだがやはり録画している人はいた!
人形造詣師の友永先生と、花のアナウンサーことつボイノリオさんである。このご両者の録画していたビデオテープによって今年4月からの再放送が可能になったようである。その事はつボイノリオさんご自身がCBCラジオの番組にて述べておられた。
『第2回〜442回放送分までの当時のビデオテープがNHKにない。使いまわしのため、消されてしまったのである。
友永センセが録画していたのを借りたらしい。わたし(つボイ)も、ビデオ録画していたほか、当時の台本も全部ではないけど、取ってある。番組スタッフがびっくりして、貸して下さい、と言われた。』(2003.3.17のCBCのラジオ番組、つボイノリオ氏談)(金太様@情報)
(!訂正:後につボイさんの記憶違いもあってつボイさんの録画保存しているのは放送二年目以降らしいと分かった。(金太様@情報)。こうなってくるとますます最初の一年目の『アクタ共和国編』の存在の有無が気になる所である。情報求む!(03/5/1)
・・・NHKともあろうものが何で紛失したりするのだろう、と思っていたのだが、「使いまわし」によるものだったのだ。当時は録画用テープというものが貴重な時代であったのだろう。
・再放送@「メンバー再び集う」(つボイノリオ氏談)
つボイノリオ氏談
「なぜ再放送で再び収録に呼ばれたかというと、まず、石山先生が亡くなったのでリメイクはできない。昔の放送を流すということになった。でも録画は3年目以降しか残っていない。なぜなら使い回しで消去してしまったからだ。1回目は記念に?残してあった。
そこで再放送では番組中にプリンプリンと花のアナウンサーが事の次第を視聴者に謝って、それによって3年目放送分につなぐブリッジにするのである。
当時つボイは、プリプリが東京での最後の仕事のつもりで自分の姿を残しておこうと1回目からほとんど録画していた。友永先生も録画されてはいたが、忙しい方なので全部撮ってあるかどうか・・・(?)。
当時ビデオデッキの一般家庭普及率は10%。坪井家では子供が歩き始めたのでカメラとデッキを無理して買った。VHS120分テープ1本5000円!!。3倍速で録画。台本も「神谷明」とか書いてある他の声優の分までもらって帰り、自分の保存と、京都でやってた深夜放送のリスナープレゼントに使った。」(2003.4.4のネットラジオ”ハラショウ!”〜有限会社DCP、つボイノリオ氏談)(金太様@情報)
・・・残念ながら今回の再放送では前半部分は放送されないとの事である。
加工が間に合わないからなのか、単に放送枠が無いのかは知らないが、いつか放送して欲しいものである。
しかし当時つボイ氏が清水の舞台から跳んでくださったおかげでプリンプリン物語のある程度の保存はかなったのである。つボイノリオ氏の功績は大きい。
<収録> |
収録は月曜日から金曜日までの5日分を半日でまとめて録った。音声を先に録り、それに合わせて人形を動かしていたので収録風景はさながらラジオドラマのようだったという。
挿入歌もその日に渡されその場で練習したというが、これはひょうたん島時代から同じだった。やはりギリギリになってしまったのだろう。
<製作スタッフ紹介> |
(声優はキャラクターの項目をご覧ください。)
原作脚本・作詞:石山 透
この石山先生こそが数々の劇中歌&天才的ストーリーの生みの親である。プリンプリン物語が予想を遥かに上回る人気で放映が延び続け、苦労されていたらしい。
昭和2年〜 | 北海道小樽出身、 旧制都立高校理科卒業、 戦後アングラ劇団を主宰 |
昭和25年頃〜 | ラジオについでテレビのライターに転身、「燃える地平線」(ラジオ)、「ふしぎな少年」(テレビ)等 |
昭和47年1/1〜2/5 | 「タイム・トラベラー」、「続タイム・トラベラー」(NHK少年ドラマシリーズ)の脚本 |
昭和48年4/2〜 | 「新八犬伝」のシナリオ |
昭和50年3/28 | 「新八犬伝」放送終了 |
昭和54年4/2〜 | 「プリンプリン物語」のシナリオの他、数々の挿入歌の歌詞も担当 |
昭和57年3/19 | 「プリンプリン物語」放送終了 |
『1927年に北海道で生まれた石山氏は、9歳の時に神奈川県に来て、理科を志した。
戦争末期には、軍の要請で原子爆弾開発の研究が密かに行われていたのだが、ちょうど旧制の都立高校に進学した石山氏は、その研究員候補生に選ばれ、毎日ひたすら物理の勉強をしていた。まだ高校生なので、即戦力というよりは”将来の研究リーダー育成”という意味合いでの採用だった。
しかしそんな中、広島と長崎に原爆の投下があり、間もなく終戦を迎えた。その日、戦災で焦げた子供の死体が多摩川を流れていく光景を見て、大変な衝撃を受けたという。この体験が元になり、石山氏は科学者の道をあきらめ、友人からの誘いで演劇制作を始めるようになったという。
一度、北海道に帰っていたようだが、NHK札幌放送局で制作されたラジオドラマの脚本が好評を博し、1958年ぐらいから、本格的にNHKドラマのシナリオを書くようになったという。(Yoshida様情報030720@”「タイムトラベラー」のシナリオ本、最後のページ(1984年刊行)”より要約)』
『当時のNHKディレクター佐藤和哉氏によれば、「・・・さて脚色をお願いした石山透さんという人(この続・時をかける少女の作者でもある)ですが、実は大変からだの大きな人なのです。背は一メートル八〇センチほどもあり、ジョンウェインののようにたくましく、いつもジーパンをはいているのです。何日も徹夜をしても平気なほど大変な体力の持ち主で、それもそのはず、食事をするのに一軒の店ではすまなくて、何軒もたべて歩くくらいです。しかし優しい目をしていつも低い小さな声で話します。ちょうど象のような人です(SFベストセラーズ「続・時をかける少女−続タイム・トラベラー」鶴書房より引用)」という事である。(凍冬31様 情報)』
作曲:馬飼野 康二
音楽:小六 禮次郎
最近で有名な音楽作品は'96大河ドラマ『秀吉』。その他にも数々の曲を残し、現在まで映画音楽・TV・ミュージカル・ステージ・CD・CM音楽・イベントと幅広く第一線で活躍中。
<略歴>
岡山県出身。東京芸術大学、音楽学部作曲科卒業後、直ちに第一線の作曲家、編曲家としてデビュー。1991年より東京音楽大学、映画放送音楽コース客員教授。
人形:友永 詔三
(専門コーナーをご覧ください)
<現在の著作権保有団体> |
人形劇団 『くるみ座』
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